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キリスト教学Ⅰ 第12講 ゆるすということ 放蕩息子のたとえ話



 7月6日㈫のキリスト教学Ⅰは、「ゆるし」について学びました。
前期15回の授業のうち12回目になり、いよいよまとめに入っています。学生たちの振り返りシートの内容も、キリスト教と建学の精神「愛と奉仕に生きる良き社会人」への深い理解が述べられるようになりました。
 
学生の振り返りシートから
 愛は常に自分の中にあることを学んだ。キリスト教やカトリックは、自己犠牲的なイメージを持つ人が多いと思う。しかし、キリスト教的な視点で見れば、愛や奉仕は全て自分に返ってくるのである。決して単純な自己犠牲ではない。
 私にも絶対に許さないと思っている人がいる。しかし、それは自分にとって良くないことだと分かった。辛かったけど、その経験があったから、今の私がいると思うと、ゆるせるのではないかと考えた。
 
 自分が何かされた時、ゆるさずに怒っていると時間が経っても、ずっとその人のことばかり考えてしまう。人を怒るということは、自分もしばりつけていることと同じだと思う。人を許すことは、自分の人生をより豊かにしていくことだと感じた。 
 ゆるすとは、これ以上苦しむのをやめ、心と魂を癒そうと決めること。この文に心をうたれました。もしこれから許せない人が現れたとしても、苦しむのはやめて、自分の心を癒せるような人になりたいです。 

 
放蕩息子のたとえ話(新約聖書 ルカによる福音書15章11-32)は、イエス・キリストが語った神のあわれみ深さに関するたとえ話です。このたとえ話は、福音書に登場するたとえ話のうちで最もよく知られているもののひとつです。

レンブラントの絵に表わされているように、父親が分け与えた財産を放蕩して帰還したボロボロの息子を、父親が無条件にゆるしています。その2人を、冷ややかな眼で見る兄が、父親に怒りの言葉を発しますが、その兄さえも、父親は慈悲深い言葉と態度でゆるします。
ここに描かれた3人の中で、誰が「真の自由」かと言えば、父親です。
このたとえ話に出てくる放蕩息子の父親の「ゆるし」は、次のように解釈できます。

ゆるしとは、
あらゆる人の中に神の光を見ること。
たとえ何をした人だとしても。

 「ゆるす」ということは、すべては過ぎ去ったことなのだから、自分に何が起こったからといって人や自分を傷つけるのはやめることです。人を裁いたり責めたりせず、目を開いて、その人のなかに光をみいだすことです。
 逆に「ゆるさない」と決めた自分は、怒りを手放さず他人を罰していると、結局、自分自身も檻の中に閉じ込めてしまいます。「絶対にゆるさない」といいはる自分には、怖れ、悲惨、痛み、苦しみ、絶望、倦怠、疑いが、いっぱい詰まっています。「ゆるさない」と考え、怒りや憎しみにしがみついているとき、人は自分がとらわれの身であることに気づけません。他者をゆるすことは、自分をゆるすための第一歩です。
 なぜなら「自己受容と他者受容は比例する」からです。他者を受け入れない人は、自分も受け入れられません。誰かを攻撃している人は、自分自身を傷つけています。
 しかし、ちょっと見方を変えるだけで、自分が不幸せなのは他人や状況のせいだと考えずにすみます。自分は大切な存在なのだと認めれば、それこそが愛と平和をもたらしてきたものだとすぐにわかります。

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