聖母ジャーナル 第3号(2026年8月)
~ 対馬丸事件が問うもの ~
毎年12月、私は「国際平和論」の授業で学生たちと沖縄を訪れる。冬の沖縄の海は、驚くほど青く、おだやかだ。けれど、その静かな水面の下には、忘れてはならない記憶が沈んでいる。1944年、学童疎開船・対馬丸とともに海に消えた、多くの子どもたちの命である。那覇市の対馬丸記念館では、事件の経緯や、生き延びた人々の証言に触れることができる。展示をたどるたび、命が失われただけでなく、子どもたちが国家の都合によって扱われ、その事実さえ隠されたことに、やりきれなさを覚える。戦争の記憶をたどる8月に、この出来事のことを、書き留めておきたい。
1944年8月22日深夜、一隻の船が、鹿児島県・悪石島沖で、アメリカ軍潜水艦の魚雷を受けて沈んだ。学童疎開船・対馬丸である。那覇から長崎へ向かう途中、わずか10分足らずで海に沈んだ。乗っていた人の多くは船倉に取り残され、海へ逃れた人も、近づいていた台風の高波に呑まれた。
犠牲者は、氏名が確認されているだけで1,484人。そのうち784人が学童だった。学童以外の幼い子どもも乗っており、子どもの犠牲は800人近いとも言われる。だが、当時の混乱や、のちに軍が敷いた箝口令のため、正確な人数はいまも確定していない。確かなのは、あまりにも多くの幼い命が、一夜にして海に消えたということである。
船に乗っていたのは、国の計画で送り出された学童だけではない。家族とともに逃れる幼子や、祖母に手を引かれた子もいた。当時、疎開はけっして安心できる選択ではなかった。潜水艦が出るという「魔の海」の噂は、親たちの耳にも届いていたからである。沖縄はまもなく戦場になる。かといって、海を渡らせれば、船ごと沈むかもしれない。どちらを選んでも、我が子の命が危うい。その底なしの不安のなかで、それでも少しでも生き延びる可能性が高いほうへと、かけがえのない子どもを送り出した親たちがいた。港での見送りで、旅立つ子を怖がらせまいと涙をこらえ、あえて明るくふるまった母がいたという。その胸のうちを思うと、言葉が出ない。
子どもたちは、親の苦悩も国の計算も知らないまま、船に乗り込んだ。しかも、乗せられたのは客船ではない。兵員輸送用に改造された貨物船の、窓ひとつない船倉だった。大きな二段の棚が組まれ、そこへ千人を超える人々がぎっしりと詰め込まれた。汗と船のにおいがこもる、蒸し風呂のような暗がりで、船酔いに苦しむ子も大勢いたという。見知らぬ本土へ、親と離れて向かう幼い胸は、どれほど心細かったことか。対馬丸記念館には、船内の様子が再現されている。展示の前に立つと、子どもたちの不安が静かに胸に迫ってくる。そして、その心細さのただなかへ、魚雷が撃ち込まれたのである。
では、子どもたちを送り出した国は、何を考えていたのだろうか。
米軍の上陸が迫るなか、政府は、当時の言葉で「老幼婦女子」と呼ばれた高齢者、子ども、女性を、本土や台湾へ移す疎開を決めた。表向きは住民保護だった。しかし、史料をたどると、そこには軍事上の目的が重なっていたことが分かる。沖縄に10万の兵を送り込む一方、島の食糧には限りがある。そこで、戦力にならない住民を移し、兵のための食糧を確保する。ある村史が、これを「県民の命を守ることよりも軍の作戦を優先した強制退去」と記すように、安全な場所へ逃がすというより、戦場から「足手まとい」を取り除くことが優先されたのである。
子どもについては、もう一つの計算があった。対馬丸記念館は、疎開の「真の目的」の一つを、「戦争の次の戦力となる子どもを確保すること」と説明している。国の文書にも、疎開を「次代の戦力を育てる」ためと位置づけた言葉が残る。子どもは、いまの戦争では「足手まとい」とされながら、次の戦争の担い手として温存すべき「人的資源」とみなされたのである。そこには、男子を将来の兵士として、女子を次世代を産み育てる存在として見る、当時の国家のまなざしも重なっていたのではないか。国家が人を「資源」として数えるとき、命はそれ自体として尊いものではなく、戦争に役立つかどうかで測られる「もの」へと変えられてしまう。
ここに、全体主義の論理が、むき出しの形で現れている。全体主義とは、国家や民族など「全体」の目的を個人より上に置き、人間をその目的のための手段として扱う考え方である。戦争は、その論理を極限まで押し進める。暮らしも、尊厳も、命さえも、「全体のためならやむを得ない」と切り下げられ、大人だけでなく子どもまでが動員され、選別され、消費されていく。
人権は、この論理に抗うための思想である。人権とは、どのような人も国家や社会の道具ではなく、それ自体としてかけがえのない存在だ、という考えにほかならない。日本国憲法が「個人の尊重」を掲げるのは、国家のために個人を犠牲にした時代への痛切な反省に立つからである。対馬丸の子どもたちから奪われたのは、命だけではない。一人の人間として尊ばれ、守られるという、当たり前の権利そのものだった。
事件の傷は、沈没だけで終わらなかった。船が沈んだあと、軍は、疎開計画が滞ることを恐れ、厳しい箝口令を敷いた。生き残った人々は憲兵の監視下に置かれ、家族との連絡さえ断たれた。沈没を「話してはならない」と口を封じられ、話せば罰せられると脅された者もいたという。命を奪われた子どもたちだけでなく、生き延びた子どもたちもまた、その体験を語る言葉を奪われた。守れなかったうえに、語らせない。これは、子どもの人権に対する二重の暴力ではないだろうか。
奪われた声は、長いあいだ沈んだままだった。生き残った子どもたちは、「なぜ自分だけが助かったのか」という問いを、誰にも打ち明けられないまま、戦後を生きた。事件の全体を伝える対馬丸記念館が那覇に開館したのは、2004年、事件から60年を経てのことである。あの記念館で見る証言の映像は、その長い沈黙が、ようやく言葉を得たあかしでもある。
対馬丸がいまも私たちに問うているのは、戦争の悲惨さだけではない。国家や社会の大きな目的のために、誰かの命や尊厳を「仕方のない犠牲」として差し出してよいのか、という問いである。人の命を「資源」と数え、子どもを戦争に巻き込み、その声まで奪う。同じ論理は、形を変えて、いまも世界の各地に現れる。戦火のなかで、最も早く、最も深く傷つくのは、戦争を始めた責任も、それを止める力もない子どもたちである。
8月、戦争を思うこの季節に立ち返るたび、私は、対馬丸に乗せられた子どもたち一人ひとりの命を思う。命は、国家のための資源でも、戦争のための手段でもない。どんな命も、それ自体として守られ、尊ばれなければならない。海に沈んだあの子どもたちは、その当たり前を、いまも静かに問いかけている。那覇の対馬丸記念館は、その問いに出会える場所である。
元井貴子(桜の聖母短期大学 人間学研究所 所長)

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