聖母ジャーナル 第7号(2026年10月)
奪われた子ども時代は、何を残したか
映画『Michael/マイケル』にみる子どもの権利
夏の終わりに、世界中で記録的な観客を集めた映画『Michael/マイケル』を観た。マイケル・ジャクソンの甥にあたるジャファー・ジャクソンが、歌も踊りも本人を思わせる姿で演じ、劇場は最後まで大きな拍手に包まれていた。けれども、私の心に最も残ったのは、華やかなステージの場面ではない。1960年代、インディアナ州の小さな家で、幼い少年が父親に厳しく叱られている場面である。
マイケルは、大勢のきょうだいの下から3番目として生まれた。製鉄所で働く父ジョセフは、息子たちの音楽の才能に気づくと、ジャクソン5を結成させ、練習と巡業の日々へと送り込んだ。映画は、父が言うことを聞かない子どもをベルトで打ち、ステップを間違えれば容赦なく怒鳴る姿を正面から描く。父はのちに、自分が子どもたちを「鞭で打った」ことを認めつつ、「殴ったのではない」「治安の悪い町で子どもを守るための躾だった」と語っている1)。一方、マイケル本人は成人後、父が怖かったこと、父が訪ねてくると吐き気がしたことを、繰り返し口にしている2)。
もう一つ、映画が丁寧に描いているのが、容姿をめぐる言葉である。思春期のマイケルは、にきびや大きくなった鼻を父にからかわれ、「鼻でか」と呼ばれた。本人は自伝の中で、そのころは鏡を見ることがつらく、人と目を合わせることもできなかったと書いている3)。大人になった彼が鼻の整形を繰り返したと報じられると、世間はそれを奇行として面白がった。真相は本人にしかわからない。ただ、少年の日に、最も認めてほしい人から投げかけられた一言が、その後も長く自己像を縛り続けることはある。スクリーンに映る少年の姿は、言葉が子どもに残す傷の深さを、あらためて突きつけてくる。
ここで、法を学ぶ立場から考えてみたい。まず、子どもの労働である。マイケルは5歳で舞台に立ち、10代前半には、学校よりも巡業やレコーディングが生活の中心になっていた。同じ年ごろの子どもたちが外で遊ぶ姿を窓から眺め、泣いたこともあったと彼は語っている。子どもの権利条約は、子どもが経済的な搾取から守られることに加え、休息すること、遊ぶことも権利として定めている4)。才能があるから、家族のためだからという理由で、遊ぶ時間や学ぶ時間を奪われた子どもは、たとえ舞台の上で大きな拍手を浴びていたとしても、十分に守られていたとは言えない。しかも、芸能の世界は、長いあいだ児童労働の規制の外に置かれてきた。日本の労働基準法も、15歳未満の子どもを働かせることを原則として禁じながら、映画や演劇の子役については例外を認めている5)。舞台に立つ子どもは「働く子ども」として数えられにくく、稼いだ金が誰の手に渡り、学校に通えているか、誰も問わないまま過ぎてしまう。幼いマイケルの収入もまた、本人ではなく父が管理していた。米国でも、カリフォルニア州には1939年から、子役の収入の一部を親の手の届かない信託口座に積み立てさせる「クーガン法」がある。大人になって初めて、稼いだはずの金が残っていないと知った子役の名を冠した法律である。しかしそれは一部の州の制度にすぎず、インディアナ州の町で歌っていた少年たちに、そうした守りはなかった6)。
次に、体罰である。日本でも2020年4月に改正児童虐待防止法が施行され、親による体罰が法律で禁止された。2022年には民法から「懲戒権」の規定も削除された7)。「躾のためなら叩いてよい」という考え方を、法はもはや認めていない。もっとも、父ジョセフの言い分は、半世紀前のアメリカで生きる黒人の父親の感覚としては、切実なものだったのかもしれない。一家が暮らしたインディアナ州ゲーリーは製鉄の町で、黒人の労働者は、高温で危険な、賃金の低い持ち場に回されるのが常だったと言われる。収入のよい仕事に就く道は、黒人にはほとんど開かれていなかった。11人の家族が2部屋の小さな家にひしめき、父自身、音楽で身を立てる夢を果たせずにいた。黒人の子どもが貧しさから抜け出す道は、スポーツか音楽くらいしかない。そう思い詰めた父親は、ジョセフ一人ではなかっただろう。差別のなかで子どもを守ろうとする親の必死さが、ときに子どもへの暴力へと転じてしまう。映画は、その痛ましい構図を、単純に責めることも許すこともせず、静かに映し出している。
その父に打たれて育った少年が、大人になって歌ったのが「ビート・イット」である。1983年、ロサンゼルスの荒れた一角で撮られた映像には、当時抗争のさなかにあった対立するギャングの若者たちが、実際に80人ほど出演している8)。刃物を手に向き合う二つの集団のあいだに、赤い革のジャケットを着たマイケルが割って入り、殴り合いを踊りへと変えていく。歌詞が伝えるのは、争いから身を引くことは臆病ではない、というメッセージである。負けを認めたくない気持ちはあっても、男らしさを誇示するために傷つけ合う必要はない。本人もこの歌について、喧嘩から逃げても男は男だ、という趣旨を語っている。貧しく、教育や仕事の機会にも恵まれない地域で、若者たちは互いに傷つけ合っていた。そうした若者たちに向けて、暴力を暴力で返さないことの強さを歌った作品と、私は受けとめている。ベルトで打たれた少年が、暴力を肯定する側に立たなかった。そのことに、私は救われる思いがする。
そして、独立である。20代になったマイケルは、父をマネージャーの座から外し、自分の音楽を自分で決める道を選ぶ。映画の中で、それは決して軽やかな門出として描かれてはいない。家族への恩、兄弟への責任、母の悲しみ。そうしたものを背負いながら、それでも彼は自分の人生を選ぶ。ここには、親子関係における最も難しい問題の一つがある。親は子どもを育て、導く。しかし、子どもは親の作品ではない。一人の人間として、自分の道を選ぶ権利がある。子どもの権利条約が、子ども自身の意見が尊重されることを定めているのも、そのためである。親に求められるのは、子どもを縛る力ではなく、やがて手を離す勇気なのだろう。
最後に、母キャサリンのことにも触れておきたい。信仰にあつく、子どもたちを陰で支え続けた母は、しかし、夫に正面から逆らうことができなかった。映画の中の彼女は、多くを語らない。だからこそ、その沈黙が重く響く。父の暴力を止めることのできない母、家の中の力関係を前に声を失う女性。外で稼ぐ夫が決め、家を守る妻が従う。その役割の分かれ方が、母の声を小さくしていた。この姿もまた、ジャクソン家だけに限られたものではない。
子ども時代に受けた経験は、大人になってからも、その人を長く形づくる。マイケルは、自分には子ども時代がなかったと、折にふれて語った。成功をつかんだ彼は、自宅の敷地に遊園地と動物園をつくり、そこを「ネバーランド」と名づけた。大人になれない少年の物語から取った名である。「僕の子ども時代を見なかったか」と問いかける曲を、自らの半生を重ねるように書きもした9)。鏡を見ることがつらいと語った少年は、大人になっても自分の顔を変え続け、父に怯えた少年は、父を前にすると体調を崩した。もちろん、その後の人生のすべてを子ども時代だけで説明することはできない。しかし、遊ぶ時間を奪われ、打たれ、容姿を笑われた少年が、世界的な富と名声を手にした後もなお、その傷を抱えていたことは、彼自身の言葉からうかがえる。子どもの権利を守るとは、いま目の前にいる子どもを守ることであり、同時に、その子の一生を守ることなのだ。
マイケルは2001年、英国オックスフォードでの講演で、父を許すと語った。父もまた、愛されずに育った人だったのだ、と10)。彼の歌が人種の壁を越え、世界中の人々に届いたことはよく知られている。けれども、その歌を歌った少年が、家庭のなかで何に耐えていたのか。この映画は、その問いを私たちに手渡してくる。子どもの人権は、遠い国の大きな出来事だけを指すのではない。家庭のなかで交わされる、小さな一言から始まる問題でもある。
元井貴子(桜の聖母短期大学 人間学研究所 所長)
1)CBS News. Dad: I Didn’t ‘Whacko’ Jacko. CBS News. 2003-11-14. https://www.cbsnews.com/news/dad-i-didnt-whacko-jacko/, (参照 2026-10-18). 英国BBCの取材(2003年)に対する発言。
2)Michael Jackson Talks… to Oprah. ABC(米国)、1993年2月10日放送の生放送インタビュー。
3) Jackson, Michael. Moonwalk. Doubleday, 1988.
4)児童の権利に関する条約(1989年国連総会採択、日本は1994年批准)第31条(休息・余暇・遊び)、第32条(経済的搾取からの保護)。子ども自身の意見の尊重は第12条。
5)労働基準法第56条第1項(最低年齢)及び第2項ただし書(映画の製作又は演劇の事業については、行政官庁の許可を受けて、満13歳に満たない児童も使用することができる)。
6)California Family Code §6750-6753(通称 Coogan Law)。1939年制定、子役ジャッキー・クーガンの名に由来する。現行法は子役の総収入の15%を、成人まで親が引き出せない信託口座(Coogan account)に預けることを雇用者に義務づける。ニューヨーク州、ルイジアナ州、ニューメキシコ州などにも同種の法律がある。
7)児童虐待の防止等に関する法律第14条第1項(令和元年法律第46号による改正、2020年4月1日施行)。民法等の一部を改正する法律(令和4年法律第102号、2022年12月16日施行)により、改正前の民法第822条(懲戒権)が削除された。
8)Songfacts. Beat It by Michael Jackson. https://www.songfacts.com/facts/michael-jackson/beat-it, (参照 2026-10-18). 歌の趣旨についての本人の言葉は前掲注3)。
9) Jackson, Michael. Childhood. HIStory: Past, Present and Future, Book I(所収). Epic Records, 1995.
10)Jackson, Michael. Heal the Kids. オックスフォード・ユニオン(英国オックスフォード)における講演、2001年3月6日。
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