言の葉だより 第3葉(2026年9月)
敬老の日に、祖母を思う
9月、敬老の日が近づくと、きまって祖母のことを思い出す。世を去ってずいぶん経つのに、年を重ねるほど、その面影は私のなかで大きくなっていくようだ。
祖母の生い立ちは、決してやさしいものではなかった。生まれてまもなく親の手を離れ、実の母の顔さえ知らずに育った。学校へ上がる年になっても机に向かうことはかなわず、幼いうちから奉公に出され、他人の家で身を粉にして働いた。ちょうど、あの「おしん」のように、と言えば伝わるだろうか。
戦争のことも忘れられない。東京の空が焼けたあの夜、祖母は幼い4人の子の手を引いて、火の海を逃げのびた。戦後の、何もかもが足りない日々も、歯を食いしばって生き抜いた。極貧の時期もあったが、「子を手放すことだけは、一度も考えたことがない」と語っていた。あれほど強い人を、私はほかに知らない。
そして祖母は、ただ耐えるだけの人ではなかった。読み書きこそ十分に習えなかったが、驚くほど頭の回転が速く、機転の利く人だった。数字に強く、人の心の機微にも敏かった。女性が商いの中心に立つことがまだ珍しかった時代に、いつしか家業を一手に担い、みごとに成功させた。学歴という後ろ盾を持たないまま、その知恵と度胸だけで一代で財を築き、3つの家族がゆったりと暮らせるほどの土地と家を、自らの力で手に入れたのである。
その家には、祖母を囲むように、私たち一家と叔母の一家が暮らしていた。大家族の真ん中には、いつも祖母がいた。働きづめの人生だったからだろう、子にも孫にも厳しい人で、年末の大掃除は家族総出。いちばん幼かった私は、窓ふき係だった。小さな手を懸命に動かしても、ガラスはなかなか光ってくれない。手を抜こうものなら、すかさず「しっかりやりなさい」と声が飛んだ。私が「働く」ということを最初に教わったのは、あの大掃除だったように思う。けれど掃除が終わるころには、ちゃんと温かいごはんが用意されていて、みんなで囲む食卓の、あのにぎやかさといったらなかった。
夜になると、大家族はきまって話に花を咲かせた。ニュース、世の中の出来事、その日のテレビ番組。誰かが意見を言い、誰かが返し、いつのまにか一家の議論になっている。いま思えば、あれは私にとって、ディベートやグループワークの原点だった。学校に通えなかった祖母の食卓が、いちばんの学びの場だったのだから、不思議なものである。
その祖母が、孫の私には、はっきりと言った。「女の子も、大学に行って勉強したほうがいい」と。女性の大学進学がまだ珍しかった時代のことである。自分には閉ざされていた扉の向こうへ、孫娘を送り出そうとする。その一言に、どれほどの思いがこもっていたのか、いまになって胸に迫る。
親の顔も知らず、奉公先でひとり大きくなった人だからこそ、祖母は、家族というものを何より大切にしたのだと思う。厳しくも優しいその人は、最期を子や孫に囲まれて迎えた。孤独からはじまった一生が、たくさんの手に見守られて閉じた。幸せな生涯だったと、私は信じている。
敬老の日に、思う。いま私たちが享受しているものの多くは、祖母のように、若い日を懸命に働いた人々が築いてくれたものだ。それなのに、年金だけでは暮らしが立たず、日々の生活に不安を抱える高齢の方が少なくない。とりわけ、子を育て、家庭を守ってきた女性たちが、年を重ねてなお、お金の心配をしながら暮らさなければならないとしたら、やりきれない思いがする。
私たちはいま、若い女性が安心して子を産み育てられる環境づくりに力を注いでいる。それは、とても大切なことだ。けれど、子を産み育てたその先に、どのような暮らしが待っているのかということも、同じように大切なのではないだろうか。かつて家族を支え、社会を支えてきた人々が、年を重ねても安心して暮らせることもまた、大切である。その姿を、これからを生きる若い世代も静かに見ているように思う。
人生は、最後までどうなるかわからない。親の顔も知らずに始まった一生が、あれほど豊かに実るとは、祖母自身にも思い描けなかったはずだ。私も、まだ道の途中にいる。この先に何が待っているのか、わからない。
敬老の日、祖母の人生を思う。そして、長い年月を懸命に生きてきた人たちが、その歩みにふさわしく大切にされる社会であってほしいと、あらためて思う。私も最期に「幸せな人生だった」と思えるよう、一日一日を大切に生きていきたい。
桜の聖母短期大学 人間学研究所 所長
元井 貴子
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